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地域活動紹介
市子沖の歴史

市子沖の歴史を探る




1.簡単な蒲生町の歴史

2.市子沖の歴史を探る

市子沖の北西から北東一帯にかけて市子遺跡が存在し,弥生時代中期の拠点集落跡とされている。また当遺跡は中世の遺構・遺物も確認される複合遺跡でもある。市子遺跡が中世市子庄の中心であったと考えられる点から,庄園村落を考えるうえで近隣の堂田遺跡の集落跡とともに貴重なものとされている。

市子沖の西南から東南一帯にかけて堂田遺跡が存在し,東部,西部それぞれに竪穴住居が集中して見つかっている。そのうち,市子沖集落の東南600mでは,5世紀後半の竪穴住居を中心とした13棟が検出されている。当遺跡は少なくとも弥生時代後期に集落が形成され,古墳時代前期には中心が移動し,その後古墳時代中期に至り大規模な集落が営まれるようになったと推定されている。なお出土された馬鍬は当時の最新農耕具であり,全国にも同時期のものの出土例はまれで,耕地の拡大には高度の農業技術を有した者がかかわったことが推測される。

浄土真宗本願寺派安楽寺は,当初は天台宗と伝え,享禄元年(1528)の草創で,開基は西順。延宝5年(1677)に木仏・寺号を許された。

春日神社は,貞享2年(1685)銘の鰐口を伝える。市子庄が寛治7(1093)には大和国春日神社(奈良市)の荘園となっていることから,そのころにはすでに祀られていたものと思われる。

織田信長が,湖北の戦国大名浅井長政が籠城する小谷を攻めたこの戦い(元亀元年(1570),姉川の合戦)に,上南城(現上南北側)を本拠としたあべい氏からは千田・橋井・西井・西村・青木・向井・西田・福永・川西など同属が多く参加したとある。

中世は市子沖村として通称市子四ヵ村(市子沖村・市子殿村・市子川原村・市子松井村)の一つであった。四ヵ村とも元和4年(1618旗本関領となり,同領で幕末にいたる。関氏の知行所は,市子(殿・松井・川原・沖)・大森・田井・麻生・大塚と中山(日野町),山中(竜王町)にあり,知行高の約7割は蒲生町域にあった。

田中神社(旧新堂村地内にある)市子荘七ヵ村(殿・川原・沖・松井・上南・下南・新堂?下南・新堂は明治7年(1874)に合併し合戸となる)の「うぶすながみ」として祀られた。元和4(1618)の棟札には,「郷土安全五穀豊饒之守護神也」とみえる。(田中神社・草の根広場辺りは現在も地名は合戸となっている。)

用水はを利用した。市子沖は庭床井利用六ヵ村(市子沖・大森・鈴・上南・市子殿・市子松井)のうち中心的な地位を占め,を出している。

文化?文政(1804?30)頃には御代参街道岡本宿の助郷を勤めている。

文政9年(18262月の村明細帳によると市子沖村には10人の奉公人がおり,奉公先は「江戸御屋敷」が3人,関東が1人,近江国内が6人(男4人・女2人)であることがわかる。「江戸御屋敷」へ奉公に出ている3人は,市子4ヵ村の領主である関氏の江戸屋敷へ奉公に出た「百姓」で,その他の7人は商家などへの奉公人である。

明治18年(18857月には市子沖に周辺19ヶ村を管轄する連合戸長役場が設置された。19ヶ村とは,市子沖,市子松井・市子川原・市子殿・上南・合戸・横山・葛巻・外原・宮井・宮川・蒲生堂・鈴・大森・下麻生・上麻生・田井・大塚・岡本である。

明治22年(18894月に市制町村制が施行された時,朝日野村市子沖となった。朝日野村は市子沖など19ヶ村に鋳物師を加え改称されたものである。

昭和30年(19554月に朝日野村と桜川村との合併により,蒲生町市子沖となり現在に至る。

以 上

3.資 料



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