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地域活動紹介

(資 料)

出典 蒲生町ホームページ


蒲生町は,鈴鹿山系に源を発する日野川とその支流になる佐久良川の流域にひらけた農村地帯です。

廃藩置県後,江戸時代の各村(現在の大字)は従来の領有関係にそって7県の管轄下に入り,その後大津県に統一,明治5年には滋賀県と改称されました。その後の区制の施行によって,各村は121314区のそれぞれに分属されましたが,そのうち下南・新堂の合併などの合戸村があり,明治12年の郡制の施行とともに区制が廃止され,いくつかの連合区域が形成されました。村制はこの連合を基礎に進められ,桜川村と朝日野村の2村が発足しました。

2次大戦後,地方自治法の公布によって市町村の行財政力の強化が要請されるに至り,昭和28年に町村合併促進法の公布の後,多少難航したものの,朝日野・桜川の両村が合併し古来より蒲生平野の名で広く世に親しまれている「蒲生」の名をとって,昭和3041日に蒲生町が誕生しました。

およそ半世紀にわたる町制の中で,産業・福祉・教育・文化の向上に,また環境整備の充実にと確実なる自治体を目指してますます発展し続けています。

蒲生町は滋賀県の東南部に位置し,鈴鹿山系に源を発する日野川とその支流になる佐久良川の流域にひらけた純農村地帯です。町の北東・南西部は海抜200メートル内外の古琵琶湖層の丘陵山林で,東北部は,なだらかな布引山系が占め,その眺望はすばらしいものがあります。

蒲生町は,約1万年前,縄文時代より開発が進み,多くの遺跡遺物が残されています。中でも県指定史跡の木村古墳群,日本最古最大の石塔寺石造三重塔などが知られています。

町制45年を迎え,産業・福祉・教育・文化の向上に,また,環境整備の充実にと,益々発展し続けています。


蒲生町統計書/【概況】/沿革


蒲生町は,滋賀県の東南部に位置する町で,北には布引丘陵,南には鏡山丘陵と呼ばれる古琵琶湖層の緩やかな丘が町域を区切り,中央部には,佐久良川と日野川によって沖積された低地が広がっている。

町の開発の歴史は古く,古事記にもみられるように蒲生稲寸の居住の地として開拓され,その祖神を祭る古社が現存している。また,綺田は錦陵製織の古地,鋳物師及び鈴は鋳鉄鍛冶といった工人ゆかりの地名も遺存し,この地の山野に古くから工業家の分布があったことを物語るもので,工芸と文化の香りが豊かである。

中世には,桧物荘,市子荘,麻生荘,綺田荘などとして社寺,公家の領地に属し,蒲生氏,佐々木氏の所領として時代の推移とともに発展し,徳川時代には,伊勢参宮の御代参街道の宿駅として栄えた。江戸時代には,多くの近江商人が出ている。

昭和3041日に,朝日野村と桜川村が合併して蒲生町が誕生した。昭和30年代の蒲生町は,近江穀倉地帯の一翼を担った純農村であった。しかし,昭和30年代後半から昭和40年代後半にかけての日本経済の高度経済成長や名神高速道路の開通などに伴い,本町においても企業誘致や宅地開発が進み,人口の増加など都市傾向化し,一大改革期を経てきた。こうした町勢の発展に呼応して,産業の振興・福祉・教育・文化の向上と生活環境整備が着々と進み,恵まれた自然環境を生かしながら明日のまちづくりのために邁進している。


管轄の変遷

明治 5年(18722月 滋賀県の管轄となる。

4月 区政制度が施行され,旧桜川村区域は第12区,旧朝日野村区は第13区に入る。

明治12年(18794月 区政廃止,郡政が施行され各村に戸長役場がおかれる。

明治18年(18857月 戸長役場を廃止し,川合外8ヶ村連合戸長役場を川合に設置,川合・木村・稲垂・下小房・上小房・寺・綺田・平林・石塔の9ヶ村を管轄,また市子沖18ヶ村連合戸長役場を市子沖に設置,市子松井・市子川原・市子殿・上南・合戸・横山・葛巻・外原・宮井・宮川・蒲生堂・鈴・大森・下麻生・上麻生・田井・大塚・岡本の19ヶ村を管轄する。

明治22年(18894月 市制町村制が施行され,川合外8ヶ村の区域を以て桜川村と改称,市子沖18ヶ村に鋳物師(従前は北比都佐の区域)を加え,朝日野村と改称。

昭和30年(19554月 町村合併促進法の施行により,桜川村,朝日野村を廃止し,その区域を以て蒲生町を設置。

出典 郷土歴史大事典(平凡社)/日本歴史地名体系25/滋賀県の地名


市子沖村

上南村の南,日野川東岸の平野に位置する。当村と同様に市子を冠する近隣の市子殿村・市子川原村・市子松井村とともに中世市子庄の遺称地。この四村は市子四ヵ村(文政石高帳など)と通称されて,近世の郷村帳類では,市子村(元禄郷帳では市子殿村)一村として高付される。四ヵ村とも元和4年(1618)旗本関領となり,同領で幕末にいたる。なお市子村として寛永石高帳では高1,482石余,慶安二年書上によると田1,077石余・畑屋敷76石余,永荒川欠田327石余。元禄期(1688~1704)には高297石余(高岡文書)。文化?文政(1804~30)頃には御代参街道岡本宿の助郷を勤めている。

用水は下麻生村地先で日野川から取水する庭床井を利用した。同井は当村のほかに大森・鈴・上南・市子殿・市子松井の各村を灌漑したが,うち当村は全水田を同井で賄い,庭床井利用六ヵ村のうち中心的な地位を占め,大井頭を出している。大井頭には近世初期からの水利関係文書が伝わる。また大森廣田神社には永禄3年(1560)に大森村より「市子庭床井井衆中」宛てに出された同井の出銭算用状が残る。文化12年(1815)の水論に関する記録(鈴区有文書)によれば庭床井の水掛高は六ヵ村で2,046石,2月の初井浚いから220日過ぎまで,数度の井浚いが行われ,彼岸(秋)明けから翌年3月にかけては苗代の時期とされた。享保10年(1725)には同井の末溝,あこ井をめぐって鈴村と争い(鈴共有文書),文化12年(1815)には庭床井六ヵ村が取水口のある下麻生村との間で同所の土砂埋没などをめぐって争論となった(同文書)。地内の日野川畔には山之上村(現竜王町)・宮川村を灌漑する祇園井の井壺がある。

浄土真宗本願寺派安楽寺は当初は天台宗と伝え,元禄5年下寺開基帳によれば享禄元年(1528)の草創で,開基は西順。延宝5年(1677)に木仏・寺号を許された(天宝下寺帳)。春日神社は集落西方の田中にあり,貞享2年(1685)銘の鰐口を伝える。


市子遺跡?現在の市子殿・市子沖・市子松井・合戸・上南に位置する。


日野川と支流佐久良川の合流点南東平野部に位置し,標高は約120m,日野川中流域における弥生時代中期の拠点集落跡であり,また中世の遺構・遺物も確認される複合遺跡。昭和60(1985),同62年に発掘調査が実施された。とくに60年の調査区域は約8,000?に及んだ。これまで弥生時代中期の方形周溝墓25基が確認され,この墓域は東西約120m,南北約120mの範囲と推定される。方形周溝墓は周溝を互いに共有することなく,単独墓として構成されていることが特色であった。調査されたもののうち,17基の周航内より遺物の出土がみられた。しかし,供献土器と認知されるものは8点のみで,周溝の肩部,あるいは底部からほぼ完形に近い形で出土しており,マウンド部から転落したものとみられる。なお弥生時代中期の竪穴住居跡もわずかながら確認されている。その他に古墳時代中期の土器溜や平安時代前期の掘立柱建物郡,溝跡などが検出され,とくに後者は当地が中世市子庄の中心であったと考える点から,庄園村落を考えるうえで近隣の堂田遺跡の集落跡とともに貴重なものといえよう。


堂田遺跡?現在の鈴・大森・市子沖に位置する。


鈴集落の東方平野部に位置し,標高は約120m。かって縄文時代の石器(石匙)が採集され,また分布調査によって奈良時代から室町時代の遺物の散布が確認されており,昭和61(1986)・同62年に発掘調査が実施された。この調査によって確認された遺溝は弥生時代中期の旧河道,同後期の竪穴住居跡や溝跡,方形周溝墓,さらに古墳時代前期から後期にかけての旧河道,同中期から後期の竪穴住居や掘立柱建物跡,平安時代末期から鎌倉時代前期の掘立柱建物や溝跡などである。出土遺物では5~6世紀のものと考えられる木製馬鍬が注目され,旧河道からは手づくね土器,・壺・甕・滑石製臼玉が,ほぼ原位置を保って検出された。これらの遺物は古墳時代中期のもので,河川における祭祀に関連するものと考えられる。当遺跡は少なくとも弥生時代後期に集落が形成され,古墳時代前期には中心が移動し,その後古墳時代中期に至り大規模な集落が営まれるようになったと推定される。おそらく水田の可耕地面積の拡大に伴うものであろう。なお馬鍬は当時の最新農耕具であり,全国にも同時期のものの出土例はまれで,耕地の拡大には高度の農業技術を有した者がかかわったことが推測される。


出典 蒲生町史1


古代・中世/第4章 蒲生の古代社会と文化/第5節 古代蒲生の仏教美術/平安後半の美術/平安後期の遺像

市子殿の観音寺は永源寺の所管となっている小庵であるが,市子庄は早く奈良の春日社領であった。市子沖には小社ながら春日神社があり,同社伝存の鰐口の刻銘に「貞享2(1685)年春日大明神の御宝前に掛け奉る」とあって,古来から春日明神として祀られていたことが知られる。奈良の春日社は本社4社に若宮1所が中心となって,これに摂末社が加えられて春日諸神が構成される。若宮の本地は聖観音像であるから,観音寺を市子沖の春日神社と関係を持たすならば,観音寺は春日神社の本地堂とも考えられる。(479ページ)



古代・中世/第5章 鎌倉・室町時代の蒲生/第4節 中世の信仰生活/中世の村落寺院と神社



/浄土宗と真宗寺院の創建604ページ)

/中世の神社信仰

市子沖の春日神社は,市子庄が寛治7(1093)には大和国春日神社(奈良市)の荘園となっており(『扶桑略記』同年822日条),そのころにはすでに祀られていたものと思われる。(605ページ)



新堂(下南と合併し現合戸となる)の八幡神社は,文和4(1355)の東寺合戦ののち,地侍の平井長秀によってかんじょうされ,明応2(1493)に上南城の城主安部井氏(平井長秀の子孫で誓安寺を建立)によって再建されている(『近江蒲生郡志』巻6)。(607ページ)

室町時代には,市子荘七ヵ村(殿・川原・沖・松井・上南・下南・新堂?下南・新堂は後に合併し合戸となる)の惣社として祭祀される(同神社棟札<『近江蒲生郡志』巻62234号>)。(608ページ)

八幡神社とは別に市子荘七ヵ村の「うぶすながみ」として田中神社(旧新堂村)があり,元和4(1618)の棟札(『近江蒲生郡志』巻62239号>)には,「郷土安全五穀豊饒之守護神也」とみえる。さらに市子四ヵ村(市子沖村・市子殿村・市子川原村・市子松井村)で祈雨の神として祭祀される雨神社(市子殿)を,大永3(1523)の棟札に認めることができるが,これらは惣村内で農業の神として祀られた神社である。(608ページ)



古代・中世/第6章 戦国時代の蒲生/第3節 蒲生氏の台頭/六角氏の家臣たち


/氏701ページ)

安部井氏は,上南城を本拠にし,市子庄に勢力を持った土豪である。『近江蒲生郡志』巻参によれば,もともと現在の日野町安部居に住していたのでこの名があると記している。‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥安部井頼国のひ孫秀家は,天文14(1545)には,さきの明応の戦いで荒廃した誓安寺の伽藍の復興を計画したが,果たせぬまま浅井氏の小谷籠城戦に参加して戦死してしまった。織田信長が,湖北の戦国大名浅井長政が籠城する小谷を攻めたこの戦いには,安部井氏からは千田・橋井・西井・西村・青木・向井・西田・福永・川西など同属が多く参加したことが,高木行法の覚書に記されている。

  • 上南城:上南の集落の北側「学校畑」と呼ばれる畑地にあった。この畑地は明治34(1901)に朝日野西尋常高等小学校が置かれたので,「学校畑」の名があるが,それまでは「城山」と呼ばれる山林であったという。灌木が生い茂り,村の者もあまり近寄らない所で,中央に稲荷社が祀られていた。


出典 蒲生町史2


近世・近現代

/第1章 近世のはじまり/第3節 幕藩領主と蒲生/蒲生の領主とその支配



/蒲生旧臣関氏

町域に知行所をおいた旗本には,徳川時代の家臣よりも戦国大名や信長・秀吉に仕えた家の系譜をひく者がおおい。なかでも,最上氏や関氏は大名として改易されたのち,旗本として取りたてられた家である。正保3年の知行主をまとめた表によると,関氏の石高は3,383石余(村数5)で周辺の知行主と比較すると数倍の大きさの石高であった。(67ページ)

関氏の知行所は,市子(殿・松井・川原・沖)・大森・田井・麻生・大塚と中山(1,588415合,日野町),山中(26853夕,竜王町)にあり,知行高の約7割は蒲生町域にあった。(69ページ)



/第2章 近世村落のしくみ/第2節 村の諸身分と寺請制/移動する身分



/武家奉公人を負担する村

文政9年(18262月の市子4ヵ村(殿・川原・沖・松井)の村明細帳には奉公に出ている人数の記載がある(市子沖区有文書)。たとえば市子沖村には10人の奉公人がおり,奉公先は「江戸御屋敷」が3人,関東が1人,近江国内が6人(男4人・女2人)であることがわかる。「江戸御屋敷」へ奉公に出ている3人は,市子4ヵ村の領主である関氏の江戸屋敷へ奉公に出た「百姓」で,その他の7人は商家などへの奉公人である。このように,「武士」に奉公した「百姓」を武家奉公人という。(111ページ)

以 上


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